釈尊の生涯と「四大聖地」
釈尊(お釈迦様)は紀元前486年頃(紀元前463年等諸説あり)ヒマラヤ山脈の麓のシャカ族の王子として生まれました。
身重であったシャカ族の王妃マーヤ・デヴィが、カピラヴァストゥの都から王妃の故郷デーヴァダハへと、里帰りの旅をしている途中に、立ち寄られたサーラ樹の遊園「ルンビニーの園」で、急に産気づき、釈尊をお産みになられました。その時、釈尊が右手で天を、左手で地を指して「天上天下、唯我独尊」と唱えたという有名な言い伝えがあります。マーヤ夫人は釈尊誕生後わずか7日ののちに亡くなってしまいます。
釈尊はシャカ族の王子として16歳でヤショーダラ妃と結婚し、ラーフラという息子を得、故郷カピラヴァストゥの城で何不自由ない生活を送っていました。ところが、ある日父王に従って華やかな田植祭に出席し、樹の下に座り、虫が鳥に捕らえられ、鳥が鷹に捕えられる姿を見て、無情を感じ、土にまみれて働く農夫や、重労働を課せられる痩せた牛の姿と自分の生き方に心を痛め、宮廷生活に嫌悪感をいだくようになりました。
そして「生老病死」の四つの苦しみを脱して、最上の悟りを得るために、周囲の反対をおしきって、29歳で出家しました。
当時のインドでは苦行こそが解脱への道と信じられていたために、釈尊は人々が捨てたぼろ布を縫い合わせた「糞掃衣(ふんぞうえ)」を見に纏い、断食などの苦行に6年間没頭いたしました。しかしついに「苦行は悟りの因にあらず」とわかり、苦行を続けた林から尼連禅河のほとりに出ます。
ある日、そこへお通りかかった長者の娘スジャータが釈尊の姿に感動して、手に持っていた乳粥を捧げました。その供物である乳粥を手にしたのち、沐浴をして身を清め、菩提樹の下に結跏趺坐(けっかふざ)して禅定に入り、21日目に釈尊は “永遠の悟り”
をひらき「佛陀(ブッダ)」となられたと伝えられています。釈尊が35歳の時でした。そこはガヤーという町の郊外でしたが、のちに佛陀にちなんで「ブッダガヤー」と呼ばれるようになりました。
悟りをひらいた佛陀は、さらに21日間の瞑想を続けているとき、梵天の「衆生に法を説きたまえ」というすすめによって伝導を決意し、ベナレス郊外の「サールナート」(鹿野苑)へ行き、かつて修行をした5人の比丘に対して最初の説法を行いました。これを「初転法輪」といいます。
そして数日のうちに60名以上の人々が釈尊の弟子に加わり、やがて「十大弟子」と呼ばれる優れた人々もあらわれ、仏教は広く伝えられることになりました。
以後80歳になるまで釈尊は法を説き、人々を教化して、偉大な足跡を残しましたが、旅の途中に病に伏し、「クシナガラ」において沙羅双樹の間に、枕を北に顔を西に向けて横になり、弟子たちに向かって「嘆き悲しんではいけない。生あるものは必ずいつか滅する時がくるのだ。これからも努力精進していきなさい。」と説かれ、静かに息をひきとりました。入滅に際して、沙羅双樹は時ならず花が咲いて満開となったといわれます。
釈尊のなきがらは幾重にも布で包まれ、香木の薪で陀毘にふされた後、遺骨をマガダ王国やシャカ族など8つの部族に分骨されて仏舎利塔(ストゥーパ)に収められて供養されました。